国際ガールズ・デー

10月11日は「国際ガールズ・デー」(International Day of the Girl Child)です

「国際ガールズ・デー」は、「女の子の権利」や「女の子のエンパワーメント」の促進を、広く国際社会に呼びかける日。プラン・インターナショナルの働きかけを受けて、国連によって定められました。

開発途上国では女の子の多くが経済的、文化的な理由により学校に通えず、10代前半での結婚を余儀なくされ、貧困の中で暮らしています。先進国でも、女の子にはさまざまな社会的制約が存在します。しかし、適切な教育と支援を受けることができれば、女の子たちの可能性は無限に広がり、未来は大きく変えることができます。 「国際ガールズ・デー」には、世界各地で女の子自らが声をあげ、彼女たちを応援するイベントやアクションが行われます。(PLAN INTERNATIONALより)

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で働くジュジュの記事です。

https://www.unhcr.org/news/stories/2020/10/5f7c86fb4/room-speak-still-long-way.html?fbclid=IwAR0lGWg73D9xvxcWOiiaEAAdD4QqK48422zpW7rtV9F-mICCif5xXmj0IjU

前回と重複する内容も含まれますが、ぜひ読んで、起こっていることを知ってください。

今から25年前、北京で開催された第4回世界女性会議では、政府の代表、人権活動家、シビル・ソサエティのリーダーたちが世界中から集まり、より良い未来を構想し、計画を練りました。しかし、彼らはこのような2020年を想像することができたでしょうか?

私たちは、すでに100万人の命を奪った世界的なパンデミックに直面しています。また、ウイルスは雇用を奪い、飢餓を悪化させる恐れがあり、さらに15億人以上の学生の教育を中断させています。そして貧しい人々の多く、特に女性は学校に戻れないかもしれません。

北京行動綱領は、12の懸念分野の概要を示し2030年までに女性の不平等の削減、性暴力やジェンダーに基づく暴力との闘い、少女の教育へのアクセスの改善などの目標を設定した。国連難民機関であるUNHCRは、難民、国内避難民、無国籍者(多くの場合、女性や特定の宗教、民族を差別する国内での法が原因である)の女性と少女のために、これらの目標を現実のものにするために努力してきました。しかし、今日、どのような点で女性に良くなったのでしょうか?私たちはどの点で進歩を遂げ、どの点で後退してきたのでしょうか?

UNHCRのシニアフィールドオフィサーであるジュリエット・ムレキーソニさんに個人的な視点からお話を伺いました。1973年にブルンジでルワンダ難民の両親のもとに生まれたジュリエットさんは、1994年のルワンダ大虐殺の余波で多くの女性や子供たちがブルンジに避難してくる姿を目の当たりにしました。高校を卒業したばかりの彼女は、家族に内緒でルワンダに渡り、そこで生涯の仕事となる女性と子供を中心とした難民との仕事を始めました。

現在はペルーのUNHCRのフィールドオフィサーとして、ベネズエラの暴力と不安定さから逃れてきた人々と仕事をしています。COVID-19は彼女の仕事をより困難なものにしています。性暴力やジェンダーに基づく暴力は増加傾向にあり、家主から追い出され多くの難民は稼ぐ手段を持っていません。しかし、ジュリエットさんは、女性や少女たちは25年前よりも恵まれていると言います。

以下は、ジュリエットさんとUNHCRのサラ・シェーファー編集長との電話やメールでの会話の抜粋です。

あなたについて教えてください。

私はブルンジで生まれ、両親は難民でした。1959年にルワンダでの迫害と民族暴力から逃れてきました。大変な生活でした。13歳のとき私は落花生を売り、母は食費や家賃を払うために裁縫をしていました。

家族は泥の家を建て、私は定期的に草を刈って屋根を付けていました。あるスイス人の夫婦が家の水を提供してくれるようになるまで、私は水を汲むために裸足で2キロ以上歩いていました。お礼にと私たちは彼らを家に招待し、小さな夕食を作りました。その日の夜は雨が降っていたので、食事は水浸しになってしまいました。その後すぐに彼らは国を離れなければならなくなり、私が別れを告げに行った際に彼らは私に屋根を買うためのお金をくれました。有難くもそれ以来草刈りをする必要がなくなりました。私は今でも常に一所懸命に働き、感謝し、創造的な解決策を見つけることを心がけています。

高校を卒業して間もない1994年、ルワンダの大量虐殺が始まり、助けたいという気持ちになったそうですね。その時のことを教えてください。

私はいつも「ルワンダに帰る」と言っていました。「難民として死ぬわけにはいかないのだ」と言っていました。大虐殺の時、ルワンダの難民がブルンジに押し寄せてくるのを見て、また、その多くがナタで傷を負っているのを見て、自分も助けに行かなければと思いました。家族に内緒で夜中に家を出て国境を越えてルワンダに入りました。ボランティアの人たちは病院で手伝いをし、他の人たちや私は生存者を探しました。そこには恐ろしい光景が広がっていました。虐殺された死体が地面を覆い、悪臭がそこかしこに漂っていました。あの匂いが頭から離れません。「どうするの?座って泣く?」と一瞬ためらいましたが、考える時間などありませんでした。

1995年の北京女性会議で、参加者は不平等の撤廃、性別に基づく暴力の減少などを誓いました。この25年間で、私たちは十分に改善できたと思いますか?

はい前進していると思います。例えば、ルワンダは世界で初めて国会の上級職の過半数が(約60%)女性ですし、それを誇りに思っています。女性がより躍進し、少女が学校に行くようになりました。

世界では女性が大統領になったり、宇宙に行ったりしています。しかしながら、すべての少女に同じ機会があるわけではありません。先日、美容師になるための勉強しているベネズエラ難民の少女に会いましたが、彼女はパイロットになりたいと言っていました。この小さな少女には、夢を叶える可能性と、最高の自分になるために必要な教育を受ける権利があるはずです。だからこそ私たちは政府や地域社会、国連機関と協力して、世界中の少女のために格差を縮める活動を続けていく必要があるのです。

2008年にイエメンのUNHCRで活動されていましたね。そこで何をされていたのか、特に女性と少女のための仕事について教えてください。

サヌアでは、私はコミュニティサービス担当官として、主にソマリア難民とそのホストコミュニティで働いていました。難民は難民キャンプではなく市内に住んでいたため、彼らに連絡を取ったり支援したりすることは困難でした。私たちは、コミュニティ・アウトリーチ・ワーカーのプログラムを立ち上げ、その中に女性が含まれるようにしました。コミュニティのリーダーとして働く女性をできるだけ多く確保することが非常に重要でした。そのうちに男性と女性が一緒に働くようになりました。これは私がとても誇りに思った成果の一つです。

イエメンで試みたことの中で、当時としては新しいこと、あるいは違っていたことは何ですか?

まず、私たちは女性と若者の協会を設立しました。私たちは女性や少女を対象に、性暴力やジェンダーに基づく暴力(SGBV)について多くのトレーニングを行いましたが、この種の暴力を犯す可能性のある人たち(主に男性)もトレーニングすべきだと考えました。すでに若い男女が一緒に活動している青年会やアウトリーチワーカーを中心に研修を始めました。

想像できるかとは思いますが、当時は男性とそのような話をすることはタブーでした。彼らは最初恥ずかしがっていましたが、徐々に興味を持ってくれて投資もしてくれるようになりました。その後、男性コミュニティのリーダーを対象にした研修も行いました。それは彼らが私とのコミュニケーションを断ってしまうかもしれない大きなリスクがありましたが、心配をよそに彼らはこのテーマについてもっと多くの研修を求めてきました。やがて、研修生たちは自分たちのコミュニティで自ら意識を高め始めました。

SGBV(ジェンダーに基づく暴力)に関連する問題について、これまでに行ってきた活動について詳しく教えてください。

私がイエメンに赴任した際、女性の性器切除が原因でとても辛い思いをしたり、病気になってしまう女性に何人か会いました。私のチームは、定期的に女性や若者とお茶を飲みながら話す機会を設けていました。ほとんどの人がこの手術に反対していましたが、自分たちには防止する術がないと思っていました。中には、「娘をおばあちゃんに預け帰ってきたら女子割礼をされていた」と話す人もいました。私は「えっ!」と衝撃を受けました。

彼女たちが年上の世代やその伝統に立ち向かう力を見つけられるように、私はサポートしました。一方で女子割礼の手引きをしていた3人の年配の女性にも会いました。最終的にはそれが唯一の収入なのだと告白してくれました。そこで私たちは、彼女たちを私たち(UNHCR)の生計プログラムに加え、さらにアウトリーチ・ワーカーがその後彼女たちが手引きしていないか綿密に監視しました。それは簡単なことではありませんでしたが、まずは一人の少女を救うことがより良い世界に繋がると私は信じています。

コロナウイルスの大流行は、女性問題の進展にどのような影響を与えましたか?例えば、このような状況では SGBV(ジェンダーに基づく暴力)が増加する傾向があります。ペルーでそれを見たことがありますか?

残念ながら、そうです。パンデミック以来、ペルーではフェミサイドが増加しています。UNHCRは3月以降ジェンダーに基づく暴力の危険にさらされている女性からの緊急通報が50パーセント増えたと地元当局から報告を受けています。

そこでUNHCRはSGBVの被害者がパートナーの元に戻らなくてもいいようにシェルターを確保しました。UNHCRのスタッフは、心理社会的なサポートを提供するために彼女たちをフォローアップし、数ヶ月間の家賃や食料を現金で提供するなど、より持続可能な解決策に取り組んでいます。

パンデミックの間、これらの女性が生計を立てるのは難しいのでしょうか?

ペルーでは、ベネズエラの難民や移民の90%以上が非正規雇用で働いており、彼女たちは毎日お金を稼いでいます。彼らはパンデミックの影響を強く感じており、多くの人が仕事だけでなく家も失っています。多くは立ち退きを余儀なくされ、UNHCRの人道支援はペルーの多くの難民にとって命綱となっています。

世界中の女性が25年前よりも今の方が幸せだと思いますか?

はい、100%そう思います。 今では発言できる場所がありますが、以前はそうではなかったです。 しかしまだ長い道のりがあります。例えば、私が働いているUNHCRでは何人かの女性が上級管理職に就いていますが、まだ女性の存在感が足りません。私は他の人たちの道しるべとなれるように、国連での男女平等に向けた取り組みを続けていきたいと思っています。

私の一番の関心事は教育です。25 年前はほとんどの少女が学校へ行かず家事を手伝っていましたが、今では学校に通う少女が増えています。しかしまだ十分ではありません。難民キャンプの内外、男女問わず100%の子どもたちが学校に通う光景を見たいと思っています。貧富関係なく教育に焦点を当てる必要があります。

来年、いや5年後に、あなたが奉仕している難民や避難民に起こってほしいことは何ですか?

2011年、エチオピアで仕事をしていたとき、難民キャンプでの結婚式に招待されました。それが13歳の少女と65歳の男性の結婚式だったことに衝撃を受けました。彼女の母親は男性が酋長なので娘の結婚は良いことだと説明してきました。私はどうしたら止められるのかと悩み、一生懸命やってみましたが、止めることはできませんでした。何ヶ月も何ヶ月もあの少女に起こっている問題について考えていました。

私は児童婚に反対する取り組みを加速させなければならないと信じています。そうでなければ、2030年までに1億2千万人以上の少女が18歳になる前に結婚することになります。女性が若くして結婚すると、学校に通い続ける可能性が低くなり、ドメスティック・バイオレンスを経験する可能性が高くなります。

私はまた、強制的に避難を余儀なくされた女性たちが、人道支援であったり、政府の仕事についたり、飛行機に乗ることなど、あらゆる分野で発言し、教育を受け、夢を実現することを望んでいます。